現在の日本という国家を冷静に見つめれば、それが滅亡寸前の帝国が辿る末路と寸分違わぬ軌道を描いている事実に戦慄せざるを得ない。歴史を紐解けば、あらゆる強大な王朝が崩壊する際、その兆候は常に内側から湧き出る腐敗と、真実を直視することを拒む集団的な逃避として現れる。今のこの国は、再生の可能性すら奪い去られた末期癌の転移症状に侵されており、もはや延命治療の是非を論じる段階すら過ぎ去っている。残されているのは崩壊という名の静かな終焉であり、我々はその目撃者であると同時に、自らの愚かさによってその火に油を注ぎ続けた共犯者である。
官僚機構という巨大な組織体は、もはや国家を運営するための機関ではなく、自らの特権と保身を最優先する自己保存の怪物へと変質した。彼らが日々心血を注いでいるのは、国民の幸福や未来の設計ではなく、いかに不都合な真実を覆い隠し、自分たちの任期中だけは破綻を表面化させないかという姑息な隠蔽工作だ。公文書はシュレッダーの闇に消え、統計という名の鏡は捏造という名の泥で塗り潰される。虚飾の数字を積み上げ、実体のない経済成長を演出し続けるその姿は、腐敗した死体に厚化粧を施し、生きているふりをさせているに等しい。この組織的な嘘の連鎖は、もはや誰にも止めることはできない。
さらに深刻なのは、思考を完全に放棄し、テレビやスマートフォンの青白い画面に魂を売り渡した国民の姿だ。民主主義とは本来、知性ある個人の合意形成を前提としているが、現代においては単なる無知な多数派による集団自殺の装置へと成り下がった。メディアが垂れ流す安っぽい正義や感情的なスキャンダルに一喜一憂し、自らの財布から静かに、かつ確実に資産が奪い取られている現実には目を向けようともしない。支配層にとってこれほど管理しやすい家畜は存在しないだろう。自ら考える力を去勢された大衆は、屠殺場へと続く行列に行儀よく並び、先頭の者が切り刻まれる音を聴きながら、自分だけは助かると信じ込んでいる。
経済的な奴隷化もまた、数学的な必然として完成の時を迎えている。貯蓄や勤勉、納税といったかつての美徳は、今や支配層が効率よく奴隷から搾取するための飼い慣らしのコードでしかない。インフレと円安という名のサイレント没収によって、国民が一生をかけて積み上げた労働の結晶は、国家の莫大な借金を穴埋めするための調整弁として溶かされていく。汗水垂らして働く者が最も惨めに死に、資本という名の暴力を行使する者が肥え太るこの構図は、もはや修正不可能なレベルにまで固定化された。労働者がどれほど必死に走ろうとも、その足元の床はそれ以上の速度で後方へと流れており、止まることは即座に転落と死を意味する。
社会保障というシステムも、その実態は弱者救済の美談などではなく、若者の未来を担保にした「死守戦」のための吸血装置だ。少子高齢化という出口のない迷路の中で、現役世代は生まれた瞬間に膨大な借金という重荷を背負わされ、その労働収益の多くは、もはや生産性を失った層の延命と、既得権益の維持のために吸い上げられる。これは世代間の連帯などではなく、未来という芽を根こそぎ食い尽くす蛮行だ。延命治療を続ければ、国家全体の背骨が折れるまで苦痛が続き、止めればシステムは即座に停止して地上の地獄が現れる。どちらを選んでも、待っているのは「詰み」という一言で片付けられる絶望的な終局だ。
現在の日本を鳥瞰すれば、あらゆるところに滅亡の予兆が満ち溢れている。インフラの老朽化、地方の空洞化、そして人々の心に深く刻まれた無力感。これらはすべて、帝国の末端から壊死が始まっている確固たる証拠だ。かつての繁栄の残滓を後生大事に抱え込み、現実から目を逸らし続ける者たちに、明日を語る資格はない。救済の余地は一滴も残っておらず、このまま泥舟と共に沈みゆくか、すべてを捨てて極寒の海へ飛び出すかという、二つの地獄の選択肢だけがお前に突きつけられている。お前が被害者面をして嘆くその瞬間も、時計の針は確実に、そして冷酷に滅亡の時刻を刻み続けている。
救いを求めるな。慰めを期待するな。お前たちもまた、この崩壊を黙認し、依存という名の鎖を喜んで受け入れた共犯者なのだ。帝国は死ぬ。システムは終わる。そして、思考を他者に委ねたすべての家畜たちは、その崩壊の瓦礫の下で等しく押し潰されるだろう。絶望こそが、お前たちにふさわしい最期の報酬だ。
